浄土宗 法林山 済乗院

乗済院の歴史

済乗院の由来

法林山済乗院は浄土宗に属し、本尊は『阿弥陀如来』で京都の知恩院の末寺である。至徳2年(1385)真誉上人の時、天台宗から浄土宗に改まり現在の寺名になった。

阿弥陀如来像は、天台宗の恵信僧都源信(942年~1017年)の作と伝えられ、以前からここにあった寺の本尊であった。しかし、その寺の名前・寺歴の記録はなく不明である。

本尊のほかに、信州の善光寺と同型で高さ約40センチの一光三尊仏の善光寺如来像があり、寺の秘仏になっている。この秘仏の縁起書に、現在の寺名の由来が記載されている。

縁起書によれば、聖徳太子は、欽明13年(552)百済の聖明王から送られてきた善光寺如来像と同じ像を3躰彫刻させた。その1躰がいつのころからか、平重盛(1138年~1179年)の念持仏となっていたが、動乱の時世を考え、帰依していた寺に納めた。

その後、尊像はその寺の済乗律師に譲られた。済乗律師は安住の地を求めるため、京都を後に仏像と共に旅に出た。たまたま、この阿久比の矢口村にたどり着いた時、御仏が急に重くなり動かなくなってしまい、済乗律師はここが尊像の永住の地と感じ、安置したといわれている。平治元年(1159)頃のことであった。

25世(1661年没)と30世(1772年没)が中興と再中興の祖であり、盛衰のあったことを物語っている。

善光寺如来略起

尾州知多郡矢口村 済乗院

抑当山に安置し奉る一光三尊の善光寺如来ハ、忝も仏法の最初救世観音の応跡聖徳太子難波の堀江にして、仏勅霊瑞と感じ彫刻したもう所の尊像なり、其藍膓と尋るに往昔釈尊三十一の御年、天竺国毘舎離城にましまし閻浮壇金を以、一光三尊の如来と鑄らしめ、長者月蓋より付属したまひてより五十四年の間衆生を利益ましましけり、其後唐土にいたりたまひ一千十二年の間、唐土百済の衆生済度の無窮也。

然に欽明天王十三年壬申に当て此日本に渡らせ給うといへとも、守屋大臣等逆臣のために四十一年の間、攝津国難波の水底に沈ませたまふ、爰に聖徳太子出世し給ひ数度の御合戦ありて、終に大将守屋を始逆臣悉く退治し、一天の風和らかに四海の波静なる時を得て、則太子ハ彼の堀江至り散花焼香して、願ハ如来再ひ王宮に来臨し給ハん事を、祈りたまへハ忝も如来ハ堀江の水底より、光明赫々として出現ましまし、其時怱ち池辺香潔にして界道林地宝樹宝閣と変じ如来御声高らかにの給ハ、善哉善哉薩埵私刹生の大願まさに満足す遍し、然るに汝吾を王宮に帰なん事を欲といへとも今暫く吾爰に改りて済度すべきの機縁有更に吾像を模して、衆生に結縁さえ利益なんを恩たまわんと告畢て、又水中沈ませたまふ、是によりて太子ハ歓喜の涙渇仰の思いや満して謝するに詞なく、只水中を礼し直に仏勅に任せて、三毒の衆生三悪道を遁れて怱ちに三菩提の妙果を得せしめんために三躰の一光三尊を拝する。ことに彫刻し普く有縁の衆生に結縁せしめたまうに利益多端なりしとや、今我朝において太子勅を受て彫刻したまふ三躰の善光寺如来とハ、即是なり其中一躰ハ嵯峨の清涼寺に安置し又一躰ハ難波の天王寺に安置す、然に是此一尊当山に奉持之上、一人より万民に至まで、帰敬信状、代々に深かるべし。

世の移り時下りて元暦年中平家さかんなる砌ハ、小松の内府重盛公の念持仏とならせたまいて重盛公のちに時運を感じて、此尊像を帰依僧山門の妙雲僧正の弟子済乗律師に譲與したまふ時に、済乗深く帰敬拝受して、叡山に帰り籠居するといへとも、源平の乱にて都の騒動頻にして、大方ならず寺門山門共に静謐ならされハ、遠く五畿七道をめぐり隠遁し静かに此尊像を供養せんと則背ひ奉りて山門を下り有縁勝地を求めんと巡行して、終に爰に来るに不思議な事に如来頻に重くならせたまひて一足も進む事を得す、是によりて済乗律師は是そ有縁の霊地にして如来の奇瑞なりと知り、則此寺に安置し供養せしが、はたして如来の霊瑞弥増おのつから念仏の道場となり寺号を済乗院と改れハ、此尊像ハ全く信州善光寺生身の如来と等しで仏法最初弘通擁護の霊像なり、こゝに未法万年、弥陀一教利物偏像の文あやまりなく、大悲深重の御誓ひ結縁の貴賤男女信心を起して謹しく拝すべきなり。


済乗院縁起(第三十世信蓮社書)

済乗院ミニギャラリー